『初めて台湾語をパソコンに喋らせた男―母語を蘇らせる物語』田村 志津枝著

これは絶対に紹介しておかなければと。台湾通、または台湾映画通なら、1980年代-1990年代の台湾映画を日本に紹介するのに重要な役割を果たした(字幕翻訳も少なからず行った)田村さんのことは知っているだろう。書籍のタイトルにあるのは、台湾語をPCで利用する方法を、ほぼ独力でしたとされるアロンという男性の紹介、そして彼と田村さんとの長い付き合いをつづった本である。台湾語は日本統治下から国民党支配下まで公式には禁止されていたため、「正書法」がない。福建省南部で話されている閩南語から分岐したもの(17-19世紀に大陸から移住した人たちの言葉が母体だとのこと)で、当時からの語彙のうちの多くは、まぁ原理的には漢字でかける「はず」であるが、学問だって受け継がれた要素が少ないままの歴史が続いたことは大きかったのだろう。本当に漢字と対応がつくはずもない語彙もあるのかもしれないが、その辺は私は専門外だが、ともかく台湾語は会話用の言葉ではあっても、書き言葉ではなくなってしまったのだという。漢字をのがれてローマ字主体の記法もいくつか提案があるようだが、どれも決め手に欠けるようだ(台湾語wikipediaも漢字ベースの表記は採用していない)。勢い台湾語の語学教材や辞書といったものも、十分とはいえないようだ。そんなわけでと言っていいのかわからないが、台湾人にとってPC上で台湾語を扱う標準の方法は、まだない。Windowsを買ってきても、Macintoshを買ってきても、台湾語が入力できるようにはなっていない。そんな、「内省人」すぎるアロンと田村さん。
北京標準語と台湾語にまつわる話、PCにまつわる話などたくさん面白い話題が出てくる(田村さん自身はPCのそういった分野に詳しい方
ではないと思うのだけれども、本書のそのあたりの記述はそんなに気になるようなものはなかった。アロン中心に進んでいる台湾語入力・発声の話題についての記述の正確さがPCの多言語処理に多少詳しい私から見たから判別がつくというわけでもあるまいが)。
そういったPC周辺の話題としてもとても面白いのだけれども、本書はそれだけにとどまらない。生まれこそ台湾だったものの、台湾から一度離れたのち、台湾にかかわるようになった田村さん。映画の視点からも入って行った田村さんと「内省人」すぎるアロンさんの間での考え方の違い。アロンという人物をもって「内省人」のステレオタイプと決めつけるのはやりすぎで、もちろん「とある内省人の個人史」なわけだが、これも台湾の現代史の一ページなのだ。そこへホウ・シャオシェン(特に『悲情城市』)、エドワード・ヤン、その他の台湾ニューウェーブ、時には台湾を離れたアン・リー。彼らの作品が描いたものから何を読み取るのか。「内省人」すぎるアロンが感じる「日本人」田村さんには自分では気づけかなった視点等々。もちろん田村さんの個人史も織り交ざっており、ある日本人とある台湾人の個人史でもあって、いやそれぞれを日本や台湾を「代表」してしまうと見すぎるとそれは誤りであろうが、しかしそういう見方が出たらめでもあるまい。
違う視点からは本書に批判なりそれはあるやもしれないが、それは本書の傷だとは思わない。本書そのものの、読み物としての面白さと、突き付ける視点の貴重さにおいては、現代日本人にはぜひ読んでほしいノンフィクションである。アジア映画ファンも、台湾ファンも、言語マニアも、エンジニアも、近現代史マニアも、そうでない人も、ぜひ読んでほしい。
現時点でgoogleでざっと見合しても書評はあまり多くない。しかし、いくつか見かける好評なそれにはそれぞれうなづくところがあった。