映画 | ポエトリー アグネスの詩 | オフィシャルサイト

この映画のあまりの入りの悪さに驚いたが、イ・チャンドンの今までの全ての作品と同様の傑作。
作家経歴を経て映画界へ入ったイ・チャンドン。監督デビューのグリーンフィッシュ (1997)は、ユ・ヨンギル撮影監督の映像センスも相まって「当時の韓国映画としては」映像派とも言えはしたが、いかにも「作家」的テーマ(勿論映画的な作品でもあった)。次作ペパーミント・キャンディー (1999)も作家として緻密に書かれた脚本、次がオアシス (2002)であったのを見て、演技の力で見せつけ、おおよそ「作家的」(映画の作家性、ではなく、文章を書く職業である作家、という意味で)ではない作品で打ちのめしてくれた。シークレット・サンシャイン (2007)も延長線上で、映像もまた素晴らしく、単に「作家的」というラベルはもはやこの人に対するものではないだろうと思った。
次の作品はポエトリー アグネスの詩(うた) (2010)であった。この作品も映像も勿論しっかりしていて、演技その他映画作品としてしっかりとしているが、ここで「詩」を取り上げ、まさにイ・チャンドンのルーツである作家的モチーフを主題に据えてきた。「詩が読まれなく、歌われなくなる時代に詩はどこへ行くのか」。これは同時に、明らかに「映画はどこへ行くのか」とも語っている。
映画のメインは、ある主人公の苦悩。ある意味でシークレット・サンシャインの主人公の苦悩にも通じるものはある。ポン・ジュノ母なる証明の母にも通じるものもある。母物と言えばダンサー・イン・ザ・ダークなどが評価が高いがあれはもはやリアリティそっちのけで一般的な母の話ではもはやない勝手な苦悩に落ちていく物語で私はまったく評価していないのだが、母なる証明と本作の祖母(しかし母でもあり、祖母であるが母性でもあろう)の苦悩の作品として非常にしっかり描かれている。
そこに詩。主人公は何度も詩を書けないという。しかし、幾度となく詩を書いている。生きる中で詩を書き、そしてそれが映画である。詩が死に行く時代の詩と、映画が死に行く時代の映画、まさにイ・チャンドが見ているのは、本作のようなイ・チャンドンの作家として生きている様が本作というのだろうか。
決して明るい映画ではない。詩を意味する시というオープニングタイトルが、まるで「死」と書かれているかのようなインパクトすらある(日本語では同音だが韓国では同音ではまったくなく사で「し」と「さ」の大きな違いがあるのだが、しかしそれでもそういうイメージを感じてしまうような…)。しかし、これが詩、映画、イ・チャンドンとしての「創作家」としてのすべての現在なのだろうか。非常に生き生きとしている。

ちなみに、「詩が死に行く時代」といったところで、日本よりは相対的に「詩」というジャンルに人気があると言われる韓国。書籍売り上げに占める詩の割合が日本より高かったかと思います。韓国詩に興味を持たれたら是非
佐川 亜紀 のホームページ
をどうぞ。